E-E-A-T

「Experience(経験)」「Expertise(専門性)」「Authoritativeness(権威性)」「Trustworthiness(信頼性)」

 

「Experience(経験)」

私は子供の頃から死に対して恐怖心がありました。人は必ず死ぬんだと子供でもあと数十年で死ぬことを怖がって夜に布団に入ると死にたい対して、時間が過ぎて死が少しずつ近づくことに心配ばかりしていた少年でした。

まだ子供の頃は土葬で死んで青白くなり口を開けて死んだ人を入れるのはひつぎではなく棺桶を使い体を折り曲げておでこに三角の布をつけます(天冠)白装束に着替えをして体育座りの形で桶の中に入り頭は後頭部を桶にもたれる形になります。

そして桶にひもを通して太い天秤棒で近所の若い男性が前と後ろでかついで墓場まで運びます。当時でも墓地や霊園があったのかもしれませんが各地にはお墓を集落で作るのが普通でした。

小さい頃から「死にたくない」と常々思っていてこうした思考の人は数人にひとりいるとネットで調べるとありました。こうした人は今を限られた人生と考えて一日を大切に一生懸命生きる考えになり偉人とか大物と呼ばれる人が多いそうですが、私はそこまではなれませんでした。

小学生の4年生位になると両親が共稼ぎだったため家にある本を読んでいました。その中に浪越徳次郎の本がありました。当時は浪越徳次郎先生は有名な方で「指圧の心母こころ押せば命の泉湧く  ハツ ハツ ハツ」とテレビに出ては決めセリフを言うのが決まりでした。

 

令和の時代では知らない人が多いかもしれませんが昭和生まれの人であれば指圧師の浪越徳次郎を知らない人はいないのではないのでしょうか当時のワイドナショーの柳谷小金治が出て浪越徳次郎さんのコーナーがあり大変人気がある方でした。

家に2冊浪越徳次郎さんの本がありどこを押せばよいとか等書いてあり芸能人を治療したマリリンモンローを治療したり多くの有名人を治療した事が書いてあり、これを読みながら将来何になったら良いかが決まってきました。

そこから健康オタクになり健康雑誌や健康本をこずかいで買い中学生でまったくの健康でありながら中高年の雑誌「壮快」を買っていました。当時はまだ月刊誌ではなく年に数回でる本だったと思います。

健康になるというのは何でも試しました。紅茶キノコや酢大豆やらぶるさかり健康器などをやって健康になれると思っていました。

帝京大学にスポーツ特待生で入学して帝京学園は多くの学校を経営しているのを知りその中に「帝京柔道整復専門学校」がある事をしりました。

柔道整復師になれる学校で柔道整復師になれば人に対して健康を提供して自分も健康をひたすら追い求める事ができるとその時はぬか喜びしました。

が、しかし私は特待生であったのに図々しい発想であった事に気がつかなかったのです。
部の監督に「帝京柔道整復専門学校」に行かせてくださいとお願いすると、何わけの分からない事をお前は言ってるの?授業料免除で無試験の好条件で入学しているのに図々しい考えでした。入学するなら大学を辞めて入学するしかない事を知りました。

授業料入学金免除で寮費はゼロで育英会奨学金をもらっていた貧乏学生が専門学校の入学などできるはずがなかったのです。

しかたなくその場は諦め、部活が終わって夜にアルバイトで聖蹟桜ヶ丘の整骨院に働き始めました。1976年、18歳(48年前)にして初めてこの治療業界に入りました。当時は湿布を作ったり、患者さんに電気や光線を当てたりしていました。

それから時が経ち、私の他に長岡という人が入ります(この長岡先生とはのちに長い付き合いとなります)。私がこの接骨院に勤めていたのは、真面目に働いていればいつかは自分の知っている柔道整復専門学校に行かせてくれるという口約束がありました。ところが、いつまで経ってもそれがまったく学校の名前も計画も一度も口にしたことが経営者の先生はありませんでした。

当時は学校に行かせてくれるという条件で信じられない低賃金で働いていましたが、これはおかしい。何年でも安いお金で働いても学校に行かせてくれないのではないかとようやく気が付き、長岡先生と私とこの接骨院を2人して逃げました。

働いて自分でお金を貯めて柔道整復専門学校に入学することを決めましたが、すでに4年生の夏になっていて就職先などもうどこもありません。そこでゼミの先生に相談したところ、「君のような正義感の強い人間は警察官が向いている」とのアドバイスから警視庁警察官募集を調べて試験を受けて合格しました。健康診断では全裸になり、入れ墨などのチェックや肛門を医師に向けて健康診断を受けました。これは痔でないかのチェックだと聞いています。

警察官になり、警察学校に入りました。1年間の学校生活では特待生として体力が高かったため、他の生徒よりも運動能力が高いと評され、みんなで走らされる校庭(学校では「トラック」と呼んでいましたが、字を忘れました)での1500m走も、体力検定1級の私はそこまで辛いとは感じませんでした。寮生活で色々なことを学び、1年後に碑文谷警察署に配属されました。

碑文谷警察署では体力を活かして盗犯検挙の記録を作り、1年半後には刑事講習(刑事になるための講習)を受けて最短で留置場係になりました。元々働いて稼ぐことが目標であったため、上司に警察を辞めることを話しましたが、「溝口のような人間が警察官をやらなくて誰がやるんだ」と説得され、両親の家まで来られて諦めることになりました。

その後、昇任試験に合格し、私のことを思う身近な人も消え、当時の係長であった御手洗さんに辞めたい旨を伝えたところ、すんなりと退職することができました。(在籍期間は4年でしたが、それを差し引いて)私は治療家歴44年となりました。

退職する際、捜査講習から内勤へのスムーズな移行を見て不思議がる人がいました。私を知る人は退職理由を知っていますが、署員だけでも200人以上いる組織ですので、様々なうわさが勝手に広がり、後から聞くと事実とはまったく違うものであることがあり、うわさの怖さを本当に感じました。

その前に、呉竹学園東京医療専門学校のはりきゅうマッサージ科本科(昼間部)の試験に合格し、退職を申し出ていましたので、1988年にはりきゅうマッサージ科本科(昼間部)に入学しました。当時、呉竹本科昼間部は非常に倍率が高く、後で知ったことですが、多くの生徒が縁故合格で私が筆記試験で受かったのが当時不思議でした。ここで強調しておきたいのは、当時「呉竹の本科」は業界で名の通った名門学校であったということです。

しかしながら、時代は変化していきます。最高裁判所の判決により、業界が学校を意図的に作らせないことが違法とされ、学校設立及び乱立が始まりました。令和の今でははりきゅの学校が十倍以上に増え、柔道整復師の学校も乱立し、多くの学校が定員割れを起こして誰でも入れるようになりました。これは昔の先生が入学した際の倍率を知っている人や今入学する人で、誰でも学力が低い生徒でも入学できることを知っていると思います。

同時期に、資格が地に落ちた職業もあります。例えば、理学療法士や薬剤師です。かつては理学療法士の給料が高く、地位も高かったですが、今の現実とは大きく異なります。薬学部も「Fラン薬学部」と検索すると厳しい現実を知ることができます。

入学してからはまだ資格がない状態で、渋谷のサウナに飛び込みで「学生ですが雇ってください」と飛び込み営業をしたところ、即採用が決まり、アルバイト先が見つかりました。寝る場所は三軒茶屋のボロアパートで、3畳1間の部屋です。布団さえ敷けて、本を置く場所さえあれば十分です。そこで、先輩のやり方を真似てサウナ流の施術を行い、好評を得て指名も増え、日銭を稼ぎました。その後、薬店勤務をして当時難関だった「薬種商」資格を取得し、鍼灸・マッサージ・漢方の勉強をしました。

そして、当時の鍼灸あん摩マッサージの学校は3年制でしたが、2年目にマッサージの資格を取得し、マッサージ師としての資格を得ました。それから病院勤務になり、最初に「小倉病院」という病院に就職しました。小倉病院では理学療法室で働いていましたが、たまたま放射線技師が鍼灸師でもあり、CTでの人体の投影で鍼の刺入角度や深さのレベルなどを共有でき、勉強になりました。

その後、3年制の学校を無事に卒業し、鍼灸師の資格も取得して鍼灸あん摩マッサージ師となりました。さらに、柔道整復師に進むためのハードルがありました。当時は倍率が異常に高く、私の勤務先である「小倉病院」の同僚が青山大学でしたが、2度落ちています。また、私が通っていたスポーツクラブの知人が私の仕事に興味を持った男性が受けてみたものの、軽い気持ちで受験したところで落ちてしまいました。その人は早稲田大学の出身でした。

さらに驚くべきことに、私は呉竹の1組でしたが、2組の生徒と一緒に呉竹の柔道整復科に受験しました。しかしこれらの生徒は合格できなかったものの、国立の医学部に受かったという珍しい現象が当たり前のように起こっていました。

有名大学の人がなぜ落ちるのかというと、当時は縁故優先で縁故枠が存在し、当時この事案で大東文化大学系列の大東柔整の学長が問題発覚から自殺するなど試験にいかに受かるかが問題でした。しかし私は大学の特待生であり、大学の監督から当時の系列の帝京柔道整復専門学校のボス関根先生にお願いして合格することができました。関根先生自らが面接してくださり、心配ではありましたが無事に合格することができました。

しかし今は昔と逆になり学校乱立入学希望者減になり現在の柔道整復師の学校は無試験状態です。近所の柔道整復師の飯塚接骨院の先生から、「先生、俺らの時代と変わったよな~。俺の弟なんか試験は作文だけだよ」という話を聞きました。さらに驚くべきことに、私の接骨院に面接に来た柔道整復師の人は、学校の説明会に参加した後、学長が面接し、「あなたの希望はよく理解できました。それではこの用紙にサインしてください」と入学書にサインをさせられたそうです。最初から何とか生徒を入学させたいという狙いがあったようです。

柔道整復師の学校が生徒不足で潰れたり、国家試験の合格率が昔と比べて著しく低下したりしていることを耳にするようになり、その問題について考えさせられました。

現状では、明らかな質の低下が問題となっています。

柔道整復師の生徒として、私は整形外科の名門である「名倉病院」で様々なことを学びました。当時は、「荒川名倉病院」「鳥居整形」という二つの整形外科が特別な存在でした。しかし、時代が変わり、コンプライアンスが厳格化し、名倉病院と鳥居整形の院長が逮捕されるなど、柔道整復師に医療行為を超えることが逮捕の原因となりました。

現在の柔道整復師は、病院で理学療法の勉強をする程度であり、昔ほど広範囲な医療知識を病院で学ぶことができません。これも若い柔道整復師と昔の柔道整復師との大きな違いです。

荒川名倉病院を退職した後、私は1992年に新宿区神楽坂に「からだハウス整骨院」を開業し、翌年には有限会社からだハウスを法人登記しました。

開業後は繁盛し、地域で1日の患者数が120人前後となり、時には150人にも達しました。しかし、繁盛に伴いスタッフは疲弊し、電車では疲労がたまり、立っているうちに眠ってしまうこともありました。

その後、テナント代の支払いや患者の流れなどの問題から、借り店舗経営は難しくなりました。そこで、2000年には現在の鶴巻温泉に「鶴巻温泉治療院」を開業し、住居兼店舗として安定した経営を実現しました。

神楽坂では有名で20年以上前にもかかわらず、2021年に東京都荒川区のみづほ整骨院の先生から私のことを知られていたことに驚きました。彼が私のことを「からだハウス」であると認識していたことは、挨拶しようとした際に示唆されました。

 

「Expertise(専門性)」

作成途中

当院のセールスポイントは「腰痛専門」どこかで聞いたセリフですが「腰痛一筋40年」このE-E-A-Tを作成するにあたって調べたところ古いCMで「ここは吉野家、味の吉野家、牛丼一筋80年、やったねパパ、明日はホームランだ」とありました。「私も腰痛一筋80年」をめざします。

私ほど多くの資格を持った先生は少なく、神楽坂時代にセミナーに参加して名刺交換すると名刺には「薬種商・鍼灸マッサージ師・柔道整復師」と代表的な資格だけは名前の横に書いておきましたが、先生方から「よく資格を取りましたね」と言われたものです。

「薬種商」資格は旧薬事法にあった資格で年に1回の試験で神奈川県では合格者年に2人とかゼロの年もあり当時は意図的合格者を出させないような政策でしたので、全国でも難しい資格試験でした。

これを作成している(2024/04/11)の前日に治療院の横にある薬店の店舗販売業の免許の更新で平塚保険事務所秦野センターの薬事担当の方が検査の為来店しました。(当時の薬種商試験の難しい事は伺っております)と話していました。本当に難しい試験でした。

しかし新薬事法になり新しい資格「登録販売者」の資格が新設され2023/11/21 — 神奈川県試験結果. 【結果概要】. 出願者数, 3,501人. 受験者数, 2,881人. 合格者数, 1,369人. 合格率, 47.5%. が県のホームページから引用しましたが、ずいぶんと簡単な試験になり、ドラッグストアに勤めるバートのおばさんでもパートの時給アップの為に取るようなレベルから考えると私からみると現行の薬事制度は簡単過ぎて問題ですがこれも国策からなるセルフメディケーション政策ですので時代を受け入れるしかありません。

 

神楽坂時代は繁盛院だったので今まで手にした事のないお金を得られたので勉強に使う事ができました。休みの日はすべてセミナー参加に当ててました。セミナーの中心はパシフィックアジアカイロプラクティック協会(PAAC)は、1976年(昭和51年)に正統派のカイロプラクティックの導入と普及を目的にとして発足した協会です。PAACでは、ディバーシファイド、ガンステッド、トムソン、ターグルリコイル、ピアーズ、SOT、等のテクニックを研鑚してまいりました。オステオパシーにも足を運んで学びセミナー参加も高額になり本などもお金を考える事無く買う事ができたので本代も多い月は20万円の月もありました。

テクニックに関してどん欲に履修をしましたのでやテクニカルな事は誰よりも自信があります。高齢者の身体を知る事からも「介護福祉士試験」を受けて「介護福祉士」資格を取り「介護支援専門員」俗に言うケアマネジャー試験を受けてケアマネジャー資格を取るなども多くの専門資格を取得しています。

 

 

「Authoritativeness(権威性)」

私の自信はSOTクラニアルの脳脊髄液の流れを理解できている点です。これを第1次呼吸メカニズムと呼びます。ほとんどの先生は頭蓋骨の動きを理解できずに教本通りに「アンワインディングテクニック」筋膜リリースのテクニックの一つで、筋膜の動きをその動く方向に追いかけていき最終的に開放へ導くテクニック「頭蓋オステオパシー」非常に軽い圧で頭蓋骨に触れ頭蓋の動きを感じ、体または頭蓋のどこに問題があるか判断し調整します。を行いますがほぼ全員の施術側が頭蓋骨の動きと脳脊髄液の流れを理解できていません。

その為頭蓋オステオパシー(オステオパシーの中でも非常に高度な解剖学知識と技術を必要とします。)と昔も今も難しいです。脳脊髄液の流れを理解していると言っている人はまず本人が大噓つきか自分の指先の拍動だとか相手の心拍数や呼吸等多くの感じ取られるものを第1次呼吸メカニズムと勘違いしています。

その為素晴らしいテクニック手技療法と言われ続けていながら、ほとんどの先生はできないのでクラニアルを施術の現場で活用している施術家は少ないです。また変化を出せないので患者さんに行っても患者さんが何をしているのかがさっぱり理解できないので筋膜リリース等の受けて側の満足度(やってもらった感が高い手技)などを一般の治療家はやっています。

単に気持ちいいだけの満足をさせる事に専念している治療院がほとんどです。

当院は全員にクラニアルを行います。そして変化を感じてもらっています。当院のクラニアルは宮野治療院宮野博隆先生に学びました。国際的にもクラニアルでは有名な先生です。私がまだ30代の頃私の患者さんが宮野先生に治療してもらって私の治療を受ける際に治療院で「先生って凄い人なんすねーあの宮野先生がSOTクラニアルで日本で10本の指の中に溝口先生が入ると言ってましたよ」と話してくれました。多少のリップサービスもあるかもしれませんがあの宮野先生からお褒めの言葉を頂いています。

あれから30年頭蓋骨を触り感じ続けて研鑽を続けてきましたのでSOTクラニアルには自信があります。若い頃セミナー参加してセミナールーム内での宮野先生のデモンストレーションで驚いた私が普通にデモンストレーションをみせられるようになったのです。

 

「Trustworthiness(信頼性)」

Experienceでも述べたように新規開業でもなく長きに渡って住居兼店舗開業をしてきましたので信頼性があります。神楽坂時代から鶴巻温泉に引っ越して鶴巻温泉治療院を開業しましたが鶴巻温泉には先に「佐藤治療院」「稲葉整骨院」がありましたが2名とも亡くなってしまいましたので私が一番の長い歴史のある治療院となりました。鶴巻温泉駅にも若い治療家がいくつか整骨院等を開業していますがテナントを借りてやっているみたいです。

鶴巻温泉治療院