神奈川の鶴巻温泉治療院は医師も推薦する気功治療院です。

症状別ページ

大山信仰と強いエネルギースポット

鶴巻温泉治療院が強い気を持った場所のお話しはホームページの所でお話ししていますが、ここではより詳細にお話しをします。大山信仰は現在では考えられない位歴史的には繁栄を極めて人々から神として信仰の対象としてはるか遠くからの参拝者がおとずれました。
古代の人々は龍脈からの気を感じこの山にエネルギーを感じて自然発生したものです。
icon57.gif江戸時代の初期に伊勢から大山詣でに来ていた曽右衛門が通りがかりでこの地を開墾していた人にここで一緒に開墾をしても良いかと尋ねたところ、よいとの返事から開墾が始まり次第に伊勢の人がこの地に住みだしたことから伊勢の名を残し大山の扇状原を伊勢原と呼んだ。134023609405713125867_DSC_4259.gif
伊勢神宮がある地からも大山詣では行われていた位はるか遠方からの参拝信者であふれていました。私はこの歴史のある気の満ちた場所で気功治療をしています。

古代から修験道の場としてありました。修験道とは山にこもってひたすら厳しい修行をする場所でたしかに大山は霊気が満ちた場所であり美しいピラミッドの三角形をしたほこらや滝も数か所あり山伏が白装束姿の身なりで切り立った断崖岩肌に立ち下を見下しながらほら貝を吹く光景が大山の地で行われていたのが目に浮かぶようである。

しかし信仰の対象となったのはそれよりももっと昔の事でまだどの宗派もこの山に入り込まない時代の自然宗教の巨石崇拝でこの地が普通の場所では無い事をこの地の人々は現代でいうパワースポットと感じ山信仰が始まったのです。

大山が龍脈の流れる地だと誰かが言い出したわけでもなく、その時代の支配者権力者が決めたわけでもなく人々がその気を感じエネルギーを感じたからなのです。気功治療をすればあなたもその気を感じるはずです。

そのような霊場を当時の僧や宗教者が見逃すはずもなく、752年(天平勝宝4年)に良弁僧正(689~774奈良時代の華厳宗の僧)により開創されたと伝えられています。大山は寺もあり神社もあり宗派を問わずこの聖地に建立したのでした。

江戸時代後期に編纂された「新編相模国風土寄稿」で大山が「雨降山」あめふりやまと呼ばれていた事が記されていて別名が「阿部利」「大福山」「如意山」「阿武利」「阿夫利」と漢字をあてられていて今にいたります。

相模湾からの海からの湿った空気が大山にぶつかる為に雨が多かった為に「山路険阻にして、頂上は常に雲霧深くややもすれば大に雲起こり、たちまち雨を降らす、これ雨山中のみにして他に及ばず、故に土人私雨と称す、雨降山」の名はこれに因か」と述べている。

昔は山頂は常に霧に覆われた山と書かれていてますます神秘的な要素を持った山なのです。

信仰は古く記録としては10世紀に「阿夫利神社」が出て来ているので平安時代には山岳自然崇拝の対象から進んで宗教形態が出来たことになります。

今と違って神道と仏教の合祀が多く大山も同じでした。大山寺が別にありその名は雨降山大山寺これをうこうさんだいさんじと読みます。

奈良の東大寺の僧が入山して創建したという。

阿夫利神社には太古からの自然宗教の対象とされた巨石を祀り「石尊社」とも称します。これはご神体を山頂角にあるといわれる霊力をもった石に見立てている由縁である。

icon58.gif鎌倉幕府の源頼朝は大山寺を保護し夫人の安産祈願や後白河法皇の法要を行い大山寺の信仰を人々に広めたが、幕府の衰退と共に寺が荒廃していた時期もあった。京都の真言宗泉湧寺派総本山の泉湧寺から復興に不動像が贈られたその仏像は国の重要文化財となっている。t02_1-(1).gif
寺の修験者は山伏として武術を磨き大山は武装集団化していった。時の権力者はその武力から頼るようになり保護をするようなっていきました。

しかし1590年の豊富秀吉の小田原城攻めの際に大山の山伏は後北条氏についた為に消滅されられる。後北条氏は元々伊勢家である事から伊勢の側に味方するのは当然の歴史的な義理、道理の世界である。

山伏は強制的に下山させられるが命までは神に仕える身分から取られる事はなく下山して大山の麓伊勢原地区に居住して庶民となる。

豊臣秀吉は修験道が去った山に二宮の等覚院から僧を呼び実質権力を掌握してその運営が任され行く事となる。

大山はその後徳川幕府の保護を受ける事になるがそれは大山寺に対するものでした。ですので江戸時代栄華を極めたの年間100万人の大山詣の人達は大山神社に行ったのでは無く大山寺にお参りしに行ってた事になります。

icon59.gifこの間にも大山の霊力により多くの民が祈りにより救われた事は記録として残っている。300px-DSCF0451.gif
これはまた別の稿で記します。

時代は1868年明治元年になると神仏分離令が布告され全国のお寺が混乱した。大山は実質支配の大山寺が支配権を失い大山神社が復権を果たし山頂に【上社】がもうけられたここには石尊社であるので、大山詣ではぜひ運動だと思って阿夫利神社の下社では無く霊力のある石を祀った上社にお参りしていただきたい。

この神仏分離令の関係で神社でお墓があるところがあるのがその名残です。鶴巻温泉治療院の知るところでは平塚の前鳥神社の境内にお墓があり、今でも仏事は行われています。

復権し初代神主となったのは権田直助で医術と国学を学んだ人と記録されています。

伊勢原の地に降りた山伏は関東の大山参拝信者の今でいう山岳ガイド、ツアーコンダクターで生計を立て勝手知った大山の案内係として大量の100万人の参拝客を事故なく参拝する事に貢献する事となり、大山詣での発展には元修験道達の力が無ければ半分の50万人の参拝者も無理だったのでは無いかと想像されるところである。

邪僧追放の形で坂本村(昔の大山町)に集住されられた修験道達は檀家収入も無くなって収入の道が立たれた事となる。それまではそれぞれの武将が檀家となり経済的な援助を与えていたがいきなり援助を断たれた形になったのでした。

icon60.gif講と言う言葉はご存知でしょうか?日本で有名なのは3大講で富士講、大山講、伊勢講があります。

講とは村や町などの地区単位で会員を募り参加した者は講員と呼ばれます。講員は会費を支払わなければなりません。その会費で順番に数名が大山に旅立つのです。122869702591416208204_PC020015.gif
そのお金で大山詣でのお土産や旅館その他もろもろの経費を支払う仕組みです。当時は個人単位では大山詣に行けるほどの経済的な余裕もなかったので村の中から順番に行って最終的には全員が行ける仕組みを作ったのです。

その為に関東の端にも大山講の石碑が立っている名残があります。信仰と合わせて当時は娯楽が無いので旅はたいそう楽しみにして平塚、江の島、藤沢での宿での酒・女の俗世を多くの旅人が求めたそうです。

大山講は地域の信仰と日常からの解放される場の提供場所でもあったのです。元修験道達は御師(おんし)となっていきます。御師とは特定の寺神社に所属してその寺社を案内し、参拝や宿泊を世話するツアコンの仕事です。御師は街道に住んで村の有力者に口添えを頼み大山講を形成する原動力となるミッションで御師は他の檀家を犯してはいけない鉄則がありました。

具体的にはどの様な事をしたのかというと、【壇廻り】だんまわりと【坊入】ぼういりです壇廻とはその字のごとく檀家の家々を廻り祈祷札を配り、初穂料を徴収する仕事です。相手は農家ですので毎年春の農閑期に行われていたそうです。【坊入】とは今年の参加者がその前に御師の家に宿泊する事でその際に初穂料を納めました。そのお金が御師の収入となったのでした。

この【壇廻り】と【坊入】を収入原としていたのすが、たいした収入とは思われないかもしれませんが、確実な収入が保証されているのと大山講は当時は規模が大きかったので御師職は最初の修験道達から受け継がれて株として売買の対象となり、有力な所に集約が進み「開道記載簿」1883年によると御師のひとつの丸山坊では村数190町5戸数16.951の講員の記録がある。

講の数は「開道記」明治16年によると神奈川2.412東京1.038埼玉2.310千葉2.668茨城2.211栃木1.113群馬881福島616新潟13長野278山梨460静岡1.618の12府県総数15.638講となる。

icon61.gif大山詣では一年中行われいたわけではなく、「新編相模国風土記稿」によると旧暦の6月27日~7月17日の20間を【初山】、7月1日~7日を7日を【7日堂】、7月8日~12日を【間の山】、7月13日~17日の間を【盆山】と呼ばれてその期間に集中して参拝が行われました。その期間は山頂の石尊までの禁止されている参拝を許されました。(それ以外の期間は中腹の不動堂まで)

その為約100万人の人員がこの期間に集中して参拝するために夏の大山に向かう街道は混雑を極めごった返していたそうであります。01.gif
往復で行は真っ直ぐに大山道で大山に向かい祈りをして帰りは行とは違い江の島藤沢方面での宿での遊びを行うのが通常であった。その為に村人も若い者を優先して大山詣での人選に選び大山詣でから帰ってきたら男として一人前としての扱いを受ける習わしがあったようです。

夜明け前の未明に麓の宿を出て大山山頂で日の出のご来光を見るのが一般的に行われていました。夏の時期に夜の出発は登山道では街道以上に混んでいたのだと想像されます。

大山道と名があるのは「新編相模国風土記稿」では8道である
⑴田村通り 藤沢の四谷→寒川に向かい田村で川を渡り横内に行き伊勢原(分かり易く現在の地名でしてあります)
⑵柏尾通り 東海道戸塚宿から境川→門沢橋→戸田で川を渡り下落合で246号線(大山道)
⑶青山通り 赤坂から青山→三軒茶屋→溝口→荏田(都筑区)→長津田→国分(海老名)→厚木で川を渡り→愛甲→大山道
⑷府中通り 日光街道から岩槻→大宮→東村山→府中→関戸→淵野辺→磯部で川を渡り→愛甲→大山道
⑸八王子通り 中山道熊谷宿から東松山→高坂→拝島→甲州街道→橋本(相模原市)愛甲→大山道
⑹蓑毛通り 秦野市から蓑毛をへて大山に向かう
⑺六本木通り 東海道小田原宿から255線沿いに北に足柄→秦野→曽屋→蓑毛→大山
⑻羽根尾通り 小田原から二宮に向かいそこから北に上がり東名中井IC→六本松通り→大山

しかしこの他にも多くのルートがありまたこの中でもルートが分かれる。まだかなりの数の道標が残っているる。今も三軒茶屋交差点にあるほどです。

大山詣での者は村人から餞別をもらいお土産帳の記録も残っている事が講がいかに役割を果たしていた事の証拠でもある。
  • 所在地〒259-1137 神奈川県伊勢原市笠窪383-3
  • アクセス小田急線 鶴巻温泉駅より徒歩8分
  • 責任者溝口 潔
  • 営業時間9:00~19:00 / 年中無休
メールでお問い合わせはこちらから

ページ上部に戻る